

今宮祭
「今宮祭」は平安の昔の「紫野御霊会」に始まり、以来、由緒と伝統のある「西陣の祭」として、毎年五月に今日まで営まれ続けている。
この祭礼は、中世まで永らく官祭として営まれたが、近衛天皇の久寿元年(1154年)四月、「夜須礼(やすらい)」の今宮詣が余り華美に過ぎるということで禁止され、それとともに今宮の祭礼の方も衰えていったという。
これは今宮の祭礼自体が禁止されたのではなく、祭礼に参加する京中の民衆が「夜須礼」に余りにも多く集まり、当時の政情も穏やかでない状態であった(“保元の乱” はこの翌々年)のでとめられたのであろう。
それとともに「今宮祭」自体も衰えていって、そしてやがて中絶していったようである。
それから百年余りを経た正元元年(1259年)には、「百錬抄」によると祭礼を興し馬長を献ずる礼があったと記されてあり、この頃から再び復活をみている。
そしてそれ以後、祭礼は室町時代を通じて大体営まれていた。
このことは、当時の「師守記」「愚管記」「続史愚抄」「康富記」「実隆公記」「御湯殿上日記」「後法興院政家記」「親長卿記」「言国卿記」「宣胤卿記」「後法成寺尚通公記」等々数多くの当時の諸記録から明らかである。
しかし、応仁の乱、戦国の兵乱後は神社の荒廃とともに「今宮祭」も再び衰退し、近世に入って「西陣」の抬頭と元禄期に桂昌院の肝いりによって再び復興して往昔のような華やかさと賑わいを取り戻した。
当時の記録によると元禄八年(1695年)五月十五日の今宮の祭礼はまことに善美を尽くしたと伝えており、(基熈記)、風流を凝らした練りものや祭りの賑わう様或いは御旅所での「今宮お旅能」の行われた様などを誌したものも少なくない。
こうして「今宮祭」は西陣とともに町衆による「西陣の祭」として、以降徳川期を通じて盛んに営まれ、今日に及んでいる。
祭礼は、毎年五月一日の神輿出し、五日の神幸祭、十五日(現在はこれに近い日曜日)の還幸祭とつづき、十九日の神輿おさめを以って終わる。
神幸祭は「おいでまつり」還幸祭「おかえりまつり」とも呼ばれて親しまれている。
神幸祭当日には、午前中の神事ののち午後神幸列を整え、車太鼓を先頭に、祭鉾、八乙女、伶人、御神宝等が続き相殿の御牛車、神輿三基の順に渡御、神職がこれに供奉、今宮通より所定の道筋に従って町々を巡幸し御旅所に入御する。
還幸祭には御旅所を出御、所定の道筋に従って町々を巡幸し、夕刻東参道より本社に還御する。
